「日日是好日」であるために2020年05月05日 01時45分51秒

量がとても多めの講義資料のようになりましたが、時間があるときに読んでいただければありがたいです。2回に分けようと思ったのですが、後日は別のことを書こうと思い、多くなりましたのでお許しください。

先日、NATIONAL GEOGRAPHICのWeb版を読んでいたら、アメリカにおけるCOVID-19による死者数(2020.05.01時点)が62,850人とベトナム戦争による戦場での死者数58,220人を上回っているという記事がありました。第二次世界大戦のアメリカ兵の戦死者数が291,557人、南北戦争による戦死者数が498,332人という死者数よりははるかに少ないですが、多くのアメリカ国民にとっての記憶ではベトナム戦争はとても大きな位置を占めています。大統領の「これは戦争だ」発言は、彼特有の発言だからということではなく、アメリカ国民にとって重大性をもっているのです。
日本と欧米諸国の対応のちがい、東南アジア諸国とのちがいは、それぞれの国が背負ってきた歴史と無関係ではありません。そのことは、国民が自分たちの歴史の中で重視しているものは何かということも表れています。
日本と他国の現状を比べて日本の対応を称賛している人たちもいますが、そこに、社会心理学や社会学、政治学などから見て、考えなければならないことが逼迫してきていると思います。

世界各国では、緊急事態ということで「私権」の制限を大なり小なりしています。そのことで、独裁やファシズムの台頭を連想する人も多くいますが、欧米諸国は長い歴史の戦いの中で封建社会を倒し、「私権」を確立してきて、その重要性をもっとも認識している人たちが多い国々です。その人たちが、自らの「私権」を制限することに協力することの重大性、その意味を私たちは理解する必要があります。
それに対して、日本では「自粛要請」としています。国民の自律性を信頼するという、聞こえのよいことばです。実は、ここに日本社会の大きな課題が潜んでいます。

第二次世界大戦を引き起こしたファシズムは独裁者が引き起こしたものではありません。ファシズムは、国民がいなければ成り立ちません。
第二次世界大戦後、欧米諸国はファシズムの脅威に対して、国民の自律性に依拠して民主主義の確立を目指すことで解決を図っていこうとしました。
日本では本質を隠し続け、戦争責任も曖昧なまま、むしろ、社会心理学的や政治学的に見れば、国民の「後ろめたさ」の自律性に依拠して、翼賛的社会の再構築をすすめてきたとも考えることができます。

日本社会では未だ旧民法の社会観が当然であり、民主主義社会観はことばの上だけではないかと思われることが多いのが現状でしょう。家族法(民法)の説明をするととても長くなりますので別の機会にしますが、「みんな一緒に」という発想のもつ怖さも理解して欲しいと思います。
今回の「自粛要請」に強制力はありません。より強いといわれる「自粛指示」にも罰則はありません。なぜなのでしょうか。それは、日本社会のもつ「翼賛的自警団」の武力的な同調圧力が依然として強いからと考えることができます。トップに能力(武力や知力、財力などの実力)があって独裁者となっているから従うという構造ではなく(実際はマスメディアなどが創りあげた「一強」という幻想でしかなかったりしますが)、「権力」という構造そのものに依存し、その構造体に自分を積極的に置くことで「ミニ権力者」として振る舞える構造を維持、強化することで、自分を「正義の者」(自分を正当化する)、「強者」(自立した存在)としようとする人々が依然として少なからず存在しているということです。そして、「自粛」していない者に対して「自警団」として摘発し、糾弾することで、自分を正当化し権力志向を満たすことができます。「正義」としての「大義」をかざして「権力」を行使しようとしているならば、公権力の発動よりももっと効果はありますし、標的になった人はあらゆる面で追い詰められていきますが、公権力としての「責任」は逃れることができます。むしろ、それを利用することによって権力構造はさらに維持されていきます。

何かある度に「犯人捜し」をするのは日本社会の特徴です。それは、今回、「大義」のためにより一層強化されていると思えます。
かつて日本が戦争への道を歩んできた歴史は、まさに、この「要請」に他ならなかったと考えられます。そして、それは否定されずに「後ろめたさ」(自己正当化)だけを引きずってきました。「翼賛的自警団」が増加すれば、多くの人々は萎縮していきます。「こんな時代は長くは続かないだろう」という思いが、いつのまにか「自ら考える」ということを麻痺させていくことになるのではと怖れたいです。
ものごとを大きく考えすぎではないかという人もいますが、大きなことで麻痺してくると、小さなことにはもっと鈍くなってくるのが人の常ということを忘れてはならないと思っています。日常的な「みんなこうしている」とか「みんな一緒に」ということは、本質を見えにくくすることでもあります。

学問的に探求すると、かえって、これからの日本はどうなるのだろうと不安が増大していきます。日本の抱えている課題を解決するための対応策を考えても実らないのではないかと思うこといます。

それでも、「だから、私はこのようにする」という自分の「信」をしっかりと持つことが大切と思います。一時期、インターネットではやったことばに、ルーマニアの革命家(政治家)ゲオルグ・ゲオルギウがマルチン・ルターのことばとして「どんな時でも人間がなさねばならないことは、たとえ世界の終末が明日であっても、自分は今日リンゴの木を植える」と著書で紹介したものがあります。いろんな解釈がされていますし、本当にルターがいったのかはゲオルグの著書以外には見つかりませんが、ゲオルグの「信」を見ることができます。

対人援助職にとっては、目の前にいる人を放っておくことはできないと踏み出すことが「信」に基づいて「生きる」ということではないだろうかと思います。

それでは、「生きる」ことを大切にする上で考えておきたいことは何でしょうか。
グループLINEのスレッドに「人生の大部分を家族や縁ある人のために費やしたご利用者が、専門職の介護をうけご自分の人生を全う出来る。そのための関わり方をアドバイスしてください。」というのがありました。

日本における保健、医療、福祉の分野で「生きる」ということや「生命の尊厳」について、今までどのように考えられていたのでしょうか。これについては、時間をかけて考えることが必要ですので、今回、すぐに答えることはしません。

「日日是好日」ということばがあります。9世紀から10世紀の唐代に禅僧だった雲門文偃(うんもん ぶんえん)の語録の中でも有名な一句です。いくつかの解釈がありますが、私の好きな句の一つです。(今から60年ほど前に出会った句です)2年前に、黒木華、樹木希林、多部未華子で、副題「お茶が教えてくれた15のしあわせ」の映画の主題となっているので、見られた方も多いと思います。お茶、お華と季節の移ろいのあるがままの姿と、そのあるがままに溶け込んだ中に所作のあり方が見えるという、私にとっては感慨深い映画でした。映画の中で出てきた茶器や茶道具のすばらしさ、床の掛け軸の意味深さ、生花の趣、そしてセリフ、それらの一つ一つとっても心がけたいものでした。

みなさんは手紙の発信日に「○月 吉日」という表現を見ることがあるでしょう。ところが、キリスト教では、すべての日が神によって創られているのだからすべての日が吉日であり、「吉日」という表現はないということです。つまり、吉や凶は人の側の見方であって、神からするとそれもすべて神が創ったもの、「あるがまま」のものということになるのです。

「あるがまま」ということはとても難しいと思います。自分の既知のことで是非を判断するのではなく、未知のことに対して、それがむしろ「あたりまえ」のことならば、そこから是非を考えなおすものとして受けとめられるかいうことでもあります。
私は研修などで「それぞれ意味がある」ということをいいますが、実は、それだけでは私がいいたいことは不足しています。「意味が無い」ということも「意味がある」とともに大切なことなのです。「意味が無い」というのは、他者から見てのものであり、本人にとっての「あるがまま」を否定する側面を持っているのです。だから、「意味が無い」ことに「意味がある」ということを「あるがまま」に受けとめることが必要になるのです。これは、実に難しいことですが、求道者(仏教でもキリスト教でも)のように「あるがまま」を自分と一体化することをめざすのは、究極の対人援助者のあり方かも知れません。

人生の大部分を周りの人のために使ってきた人生、それはとても大切です。だから、もう少し楽になってもらいたいと思う人もいるでしょう。少しは自分の人生のために使ってくださいと。でも、その人は「自分の人生」をしっかり生きている、自分のために使っていると見ることもできます。私には真似できない人生だなあと思い、むしろ、人のためにと苦労していることをしっかりと認めていくこともあります。あなたがいたからここまで来られた、まだまだあなたを必要としているから、もっと尽くしてね、というかも知れません。また、「あなたのために」としていくかもしれません。

「いつまで親のすねをかじるのか」という話を聞くことがありますが、「親は死ぬまですねをかじらせればいい」という人もいます。親は子どもがいてこそ「親」になれるのですから、「親」として最後まで徹することが親のあり方ということです。子育ては大変ですし、苦労もたくさんしますが、それは「親」の務めです。旧民法の社会観では「親孝行」が最重要といいますが、それは、政治(権力構造)の確立維持のためにいわれてきたことです。本来の「親孝行」は「親」として徹するからこそ「子」は「親」を知ることになるのです。「親」であることは難しいです。「子」は自分の所有物ではありませんし、自分の思いどおりに育つわけではありません。「子」から感謝されるために「親」になるのではありません。だから、人は成長する中で(子どもがおとなになるというだけでなく、おとなも)自己と他者、「人のために」ということなどを身近な存在から知っていくことになります。

「人のために」生きてきた人が、最後まで「人のために」生きていけるようにするにはどうすればよいかを考えることも大切ではないでしょうか。そして、その生き方、あり方を周りの人が実感として受けとめられるようにするにはどうすればよいか考えるという視点も大切です。
周りの人が分かっていないから報われていないと思う場合もあるかも知れませんが、本人は分かってもらうことを求めて生きてきたのではないかも知れません。
よく私が「ていねいに生きる」といいますが、それは、「日日是好日」につながるのかもしれません。
世の中には、直ぐに分かることと直ぐには分からないことがあります。直ぐに分かることは必ずしもよいということではありません。直ぐには分からないことが、あるときにふっと分かることもありますし、生涯、解を求め続けることになるかも知れません。それでも、あせる(焦る、褪せるの両方の意味で)ことなく「あるがまま」を受けとめていくのがよいのでしょう。

対人援助にたずさわる人として、技術上のサポートもありますが、「あなたが人生で大切にしてきたものは何ですか」という問いの解をその人との関わりの中で見つけること、大切なものを最後まで持ち続けるためにはどうすればよいかを意識することが大切と思います。

現実の生活の中で、施設で必要なハンドソープなどの物品をしっかりとした意志を持って探すことも、今しかできないこと、今だからできることです。小さく見えたりしても「私がする」ことを改めて認識する機会は貴重です。

「第2講」は後日。