リアルから実相を探求する2022年09月23日 13時22分21秒

聖書や仏典を「原典」そのまま読むことができる人はいません。それは、そもそも「原典」といえる書籍は現在私たちが目にすることはできませんし、歴史の中で編纂され、推敲されてきたものだからです。さらには、「原典」の元はイエスや預言者たち、釈迦が話したことば・物語であり、弟子たちが見聞きしたことを基に編纂されていたものです。また、世界に広がっていく過程の中で、それぞれの国のことばや文字に翻訳され、改訂されてきたものだからです。

例えば、キリスト教の聖書は旧約聖書(「続編」といわれる部分を含む)と新約聖書の2書から成り立っていて、あわせて聖書といいますが、旧約聖書部分はユダヤ教のタナハ(tanakh)を基にしていますし、旧約・新約聖書それぞれに「外典」「偽典」と呼ばれるものがあります。新約聖書はギリシャ語が元であると言われますが、旧約聖書はヘブライ語・アラム語で書かれていて、死海文書により少しずつ明らかになってきました。翻訳にあたっても5世紀にウルガタ(ラテン語訳聖書)によって新約聖書と旧約聖書の「正典」としての統一性が具体化されました。その後、長い間ウルガタの時代がありましたが、宗教改革と呼ばれる時代近くになって16世紀にルターによるドイツ語版聖書が密かに出版され、その後英語翻訳版へとつながり、イングランド王ジェームス1世が英語版「欽定訳聖書」を出版され、今日の各国翻訳版聖書へとつながってきました。
現在の日本ではフランシスコ会聖書研究所(サンパウロ発行)の「聖書(原文校訂による口語訳)」や日本聖書協会発行の「協会共同訳」「新共同訳」(協会共同訳・新共同訳はカトリックが使用する「旧約続編付」とプロテスタント用の続編なしの2種があり、新共同訳はカトリックとプロテスタント共通の聖書としている)「文語訳」「口語訳」聖書、新日本聖書刊行会の「新改訳」のほか、何種類も出版されていて、それぞれ表記されていことばだけでなく、表現や意味合いも異なっています。それは、聖書をどのように解釈しているかということでもあります。またイエスのことばなどは旧約聖書をもとにしているため、新約聖書を読むだけでは聖書に書かれている意味の理解が不十分になっていまいます。
私はひととおりもっていますが、いろいろ考えるときにはフランシスコ会聖書とバルバロ訳聖書で(訳註がよいので)、原稿を書いたりするときは新共同訳聖書(旧約続編付)を主に使って(ミサ典礼用聖書なので)います。

仏典はサンスクリット語で書かれた教典が最も古いといわれていますが、私たちがよく目にするのはすべて漢字で書かれたものです。有名な「般若心経」や「阿弥陀経」など、漢文をそのまま読むのは苦手という人もいるでしょう。初めて接する人でも親しめる教典を翻訳したもので私が気に入っている本に、岩波文庫の青303-1「般若心経 金剛般若心経」(中村元・紀野一義訳注)があります。漢訳と読み下し文とサンスクリット原典からの現代語訳を対照させていて、註も細かくて、繰り返し読むごとに理解が深まります。
本願寺出版社「浄土真宗聖典(註釈版第二版)」など、現代の人々が読みやすく、親しみやすい宗派公認の読み下し・現代訳の書籍も増えてきてとてもいいことだと思っているのですが、私自身は漢文付きの方が馴染みがあるので、親鸞の「歎異抄」も角川ソフィア文庫の「新版歎異抄 現代語訳付き」(千葉乗隆訳注)が原文・訓読・読み下し・要旨・現代訳・解説とあって、初めての人でも読みやすいのではないかと思うのです。
仏教に限らず宗教では「教典」という文字に書かれたものは重要ですが、「経」はサンスクリット語のスートラを漢訳したもので釈迦が説いた法(ダルマ)=真理をまとめたものといわれています。そもそも釈迦は自分の話を文字に残すことを認めていなっかのですから、釈迦の入滅後に弟子たちが「釈迦がこう言いました」などのように記録化したものが基となって今日へとつながってきた(さまざまな推敲、翻訳、改訂を経て)のです。そういうことでは、新約聖書の「イエスのことば」と同じ経過ですね。
私たちが目にする仏典には「唐の玄奘三蔵」訳が多いのですが、あの「西遊記」でおなじみの三蔵法師です。6世紀前半に16年をかけてインドで学び、657部の教典を持ち帰って翻訳し、先に伝わっていた法典翻訳の誤りなどを正しました。とりわけ、最も重要と考えられていた「大般若経」を翻訳して生涯を終えました。
サンスクリット語を漢語に翻訳するにあたって、音と漢字の意味を一致させながら教典としてまとめ上げる作業は、現地で実際の生活を体験してその意味を深く理解しなければ、真理に近づくことはできなかったでしょう。私たちが「般若心経」を読む(唱える)ごとに深い意味を考えさせるのは、リアルから実相を知った人の翻訳だからこそだと思うのです。

現実をどのようにみるのか、実際をどのようにみるのか、ありのままの姿をみることが重要であるが故に、その難しさをかみしめながら、尚、実相を求めて行かなければと思っています。

さて、10月研究会は10月8日(土)13:30〜16:30に会場(名古屋国際センター 第2研修室:3階 )を予定しています。
会場に来られない方にはオンライン(会場などの都合などで万全にはできませんが)参加をサポートします。
当日、オンラインで参加(出席)を希望する方は、10月6日(木)18時までに「オンライン参加希望」の旨、連絡してください。(事前登録者に自動的にミーティングID等を連絡することはしません。)希望者には必要に応じて確認の上、ミーティングIDなどを10月7日(金)にお知らせします。オンライン登録されていない方で希望される場合には、個人メールアドレスを添えてその旨し込んで下さい。

今後、次の日程で開催予定していますが、情況により中止(休会)することがありますので、直前の連絡も含めて、確認してください。
また、会場使用にあたっての注意事項(以前に記載しています)も遵守していただきます。
不明なことがあれば、LINEかE-mailか、このブログのコメント欄(原則、コメントについては一般公開しません)から連絡してください。

<2022年10月研究会>
日時: 10月8日(土)13:30〜16:30
会場: 名古屋国際センター 第2研修室(3階)
<2022年11月研究会>
日時: 11月12日(土)13:30〜16:30
会場: 名古屋国際センター 第3研修室(4階)
<2022年12月研究会>
日時: 12月10日(土)13:30〜16:30
会場: 名古屋国際センター 第2研修室(3階)

「解釈する」ということ2022年09月30日 22時18分55秒

ものごとを理解するということは、解釈するということでもあります。「理解」とは大辞泉によると「①物事の道理や筋道が正しくわかること。意味・内容をのみこむこと。②他人の気持ちや立場を察すること。」とあります。そして、「解釈」とは「①言葉や文章の意味・内容を解きほぐして明らかにすること。また、その説明。②物事や人の言動などについて、自分なりに考え理解すること。」とあります。どちらの単語にも共通することは「解」です。
意味をどのように解するか、相手の意・事情に沿った解なのか、自分の考えから紐解いた解なのかという違いがありますが、判断に作用するものです。

統計などデータを積み重ねて解釈することは量的理解をすすめるうえで必要ですが、質的理解をすすめるうえで必要な力が文章読解です。
もちろん、相手が言語的表現をどのように駆使しているかにも影響されますが、それでもなお、言語的理解、文章読解の力が高ければ対話による相互理解を高めていくことが可能です。言語的理解は具象を抽象化し、抽象化された言語から具象化する力でもあります。現象を知っていれば具象化することが容易になりますが、そもそも何を抽象化したかということを推理し、言語という抽象から本質を探究しなければなりません。「相手を知る・理解する」ということは、相手が具象をどのように抽象化し、抽象をどのように具象化するかということを知るということでもあります。相手のものの見方・考え方は、相手が具象と抽象の間をどのように往復しているかでもあり、どのように言語を用いているかによって、見方・考え方の一端が見えてきます。
人間が発達してきたのは言語理解によるものです。具象を如何に適確に抽象化して伝え、抽象化されたものから具象に復元することにより思考が深まり、推理し、応用する力が発達してきました。「群れ」が「社会」へと発展構成されたのも言語によります。概念を共有した集団がコミュニティの始まりです。

ことばのやり取りにおいて、「あれ」「これ」という指示代名詞や、「あの人」「この人」という人名代名詞を使ってお互いに言っていることの意味が分かり合える(コミュニケーションの成立)には、共通の認識が深く、あるいは、長い間の習慣化された行為がともなっていなければ困難です。
そのため、ことばの意味や用法を知っているだけでなく、文章読解などを含む言語理解は極めて重要になります。
また、ものごとに着眼し思索するうえでも、本質に近づく切り口を言語によって整理することは大切です。

私の手許に、「着眼と考え方 現代文解釈の基礎(新訂版)」遠藤嘉基・渡辺実(ちくま学芸文庫)(以下、「基礎」と略)があります。1963年刊行「現代文解釈の基礎」(もともとは1960年の「現代文解釈の方法」)が1991年に新訂版となり、絶版となっていたのですが、2021年に文庫版として出版されたものです。「基礎」のレイアウトがよく、中学・高校の時に参考書としてというよりも読書の「手引書」として使っていました。「例題」と「考え方」、「着眼点」、「演習」が一目で把握でき、昨年文庫版として復刊されたので、頭の体操をかねてすぐに購入しました。巻末解説にインターネットで有名になった読書猿氏が寄稿していて、「学習参考書」らしくないと思えるところもありますが、氏の文章はこの「基礎」を的確に掴んだ内容で感心するとともに、あの名著をよくぞ文庫版にできたものだ驚嘆しました。
「基礎」は「解釈の基本」を示してあるだけでなく、「考え方」として解説したり、練習問題をとおして(学校の試験問題のような書き方になっていますが)深く考える手助けになります。繰り返し繰り返し読むことで、繰り返し繰り返し考えることで、本質に迫る(近づく)方法・道順が身についていく、時代を超えて人が身につける素養になっていく一助になります。「基礎」は一気に読破する書籍ではありません。むしろ、1年間、あるいは3年間かけてじっくり読んでいくこと、引用している原著を読みながら読むなど、それぞれの趣に応じて味わえます。

近年はマニュアル本のように簡便や安直で単純な一択回答を求める人が多いですが、人と人の関係はもちろんのこと、人生は一択回答で歩むものではありません。
秋の夜長に読書というのは古来よりいわれていることですが、読書のためのお供を傍らに置いておくのはいかがでしょうか。