「心の叫び」や「メッセージ」をどのように受けとめるか2023年01月11日 22時45分24秒

もう少しすると、28年目の「1.17」になります。2年前の1月18日のブログで「私の一冊『心の傷を癒やすということ』」を書きましたが、昨年は安先生の師である中井久夫先生も亡くなられました。クライアントの「叫び」や「メッセージ」をどのように受けとめているかは、日頃からの他者との関わりの中でどのように暮らしているかにもつながっていると思います。

研究会や研修会でしばしば話していることですが、「きく(聴く・聞く)」ということについて深く考えることが対人援助職においては特に必要だと思っています。インタビューについてお話ししたこともありますが、聴くことは視ることであり、ことばそのものの意味もさることながら、ことばを読みとることと、ことばの背景に横たわっているその人の文化と現状認識から、クライアントが語っている中身を吟味することが大切です。
研修などの場でよく、「本人の本音を聞く」ということばを聞きますが、自分が「聞きたいこと」を聞きたいのであって、クライアントの「心の叫び」や「メッセージ」を聞こうとしているのではない発言にしばしば出会います。また、クライアントが「暗に伝えたい」ことや、自身のことばでは言い表せないことについて苦心しているであろうと思われることについて見ていないのではないかと疑われることが多々あります。
クライアントに長く関わってきていると、自分はクライアントのことをよく知っているとの錯覚に陥り、ますますクライアントの声を見なくなってしまうおそれがあります。「日々新たな目で見る」ことはよくいわれるのですが、それは、連綿と続いているその人の歴史・文化・行動を同じ視点で見るのではなく(自分の今までの思い込みで見るのではなく)、異なる視点や新たな視点で常に接することです。それにより、「同じ話し」であっても、新たな発見が生まれるのです。

また、人はそのときそのときに思いつきで喋ることもありますが、その「思いつき」と思える話しも、それまでに伏線としていくつものメッセージが隠されています。直接つながるものもあれば、そうでないものもあるので、後から見て「あれがそうだったのか」と思うこともありますし、「結局、何のつながりもなかった」と思うこともあるかもしれませんが、それぞれのことは縦糸と横糸のようにつながっているものです。
この数年、「朝ドラ」の「伏線回収」ということばがSNSなどで賑やかですが、「伏線」となるシーンを何気なく見過ごしていると「突然」のように思われることになります。それでもそのシーンを深読み過ぎると「伏線」でもなんでもないことに振り回されたり、自分の都合による解釈に終わりかねません。ドラマでは面白かった、つまらなかったでいいかもしれませんが、対人援助の臨床ではクライアントと自分の人生に直接影響してきます。
発することばや行動を一つ取りあげて、「何かあるのでは」と見るだけでは見つけることはなかなか難しいでしょうが、いくつかのことを組み合わせて相関性を吟味したりすると見えてきます。その場合でも、主体者は誰かを忘れてはなりません。「私」を主体者に置いていると「相手」は客体者になってしまいますから、自分に都合のよいように見てしまいがちになります。「相手」のメッセージを受けとるには「相手」が主体者であることをしっかりと認識しなければなりません。
昨年7月の研究会で「現代文解釈の基礎」の書籍について少しふれましたが、文章(作品)を読むということは書かれている文字を追っていくことではなく、作者(著者)と読み手である「私」の相互作業です。読み手がどのように読んでも構わないというものではなく、このように読んでほしいとの作者のメッセージを受けとっていくことが解釈になります。読み手が「自分の好きなように読めばよい」というのでは、作者が伝えたいことが歪められたりしますし、作者の心の内を読みとることはできません。

「私はこんなにあなたのことを想っています。心配しています。考えています。」といっても、それは自分が主体者であることから一歩も踏み出してはいないのです。また、「私はこんなに思っています。だから、あなたも私の思いを汲んでください。」という思いも、自分が主体者であることから踏み出してはいません。相手も主体者であることの相互の関係を見失ってはいけません。自己の「存在」とは他者の「存在」との相互関係がなければあり得ません。
「私」の側からの見方ではなく、「私」のことばを「相手」はどのように受けとめるかと考えることも相互性から見ることの一つです。「私が想っているから、あなたも想ってほしい」では、「私」が想わなくなったら「相手」も想わなくなってもよいということです。主体と客体の関係からメッセージをどのように読むかを考えることが大切です。

「相手」のメッセージの中にある「悲しみ(哀しみ)」を読み取れることは「相手」の「喜び」を知ることでもあります。「悲しみ(哀しみ)」の淵にあって、その「悲しみ(哀しみ)」を「誰に伝えるか」と本人が辺りを見回したときに、本人の「存在」を指し示す人であってほしいと願っています。